著作権はいったい誰を幸せにするのか?
ネットの話題に、著作権問題が無い日がありません。著作権は今では誰もが関わりを持つもの。こうしてブログを読み書きしてるだけでも、それは著作物のやり取りになります。関心を持たないわけにはいかなくなってるんですね。
しかし、その著作権。いったい誰を幸せにしてるのでしょうか?
もちろん著作物の保護は重要です。お金がまわらなければ、作品を作り続ける事ができなくなります。
ですが、「著作者にお金をまわす」方法は著作権だけなのでしょうか? そして本当にお金がまわっているのでしょうか?
今回はいくつかの事例をあげながら、「著作権は誰を幸せにするか」を考えようと思います。
著作者と出版社
そもそも著作権とはどうやって生まれたのでしょうか?
上のサイトによれば、グーテンベルグの活版印刷による大量印刷の実用化後、1710年になって海賊版規制のために考え出された権利のようです。
ちゃんと著作者にお金を払ってくれる出版社以外から本を出されたのでは著作者もたまったもんではないですし、払ってくれたにしても2つの出版社から本が出たら、出版社としては売り上げも半分になってしまうわけです。それでは商売として成り立たない。
ここで copyright 、すなわち「複製する権利」という著作権が考えられたわけです。著作権の出発点は、そもそもが出版社保護であって、著作者保護ではなかったんですね。
ミュージシャンに音楽出版社はいらない
さて、著作権が無かった頃、音楽家たちはどうやって利益をあげていたのでしょうか?
Wikipediaのベートーベンの項目にこんな記述があります。
ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。
つまり、イベントのために依頼されて曲を作り、演奏する事で暮らしていたのですね。
宮廷や有力貴族から作曲を依頼されるような音楽家となるとそう数は多くないでしょうから、その他の音楽家はやはり演奏、つまりコンサートやライブで利益をあげていたのだと思われます。
ライブやコンサートで得られる収益
さて、レコード時代、CD時代、さらにはiPod時代を迎え、いつでもどこでも音楽を楽しめるのが当り前になりました。
では、ライブ(生演奏)は廃れてしまったのでしょうか?
そんなことはありません。
上のページによりますと、コンサート興行にはいくつかのパターンがあるようですが、赤字になるのはCDの販売促進やイメージアップのためのコンサートで、他はきちんと黒字になるようです。
コンサートは赤字だ赤字だとよく言われますが、最初から赤字のつもりでやってるんですね。
客席のキャパシティが2000人規模の会場の場合としてあげられてる上のサイトの数字を表にしてみました。
名目 | 費用(円) |
---|---|
会場レンタル費 | 1,200,000 |
宣伝費 | 500,000 |
アルバイト人件費・食費 | 700,000 |
プレイガイド手数料 | 600,000 |
著作権使用料 | 100,000 |
その他雑費 | 100,000 |
イベンターへのギャラ | 400,000 |
舞台制作費 | 1,000,000 |
音響・照明 | 1,400,000 |
特殊効果 | 200,000 |
輸送費 | 800,000 |
雑費 | 200,000 |
リハ・スタジオ10日分 | 1,000,000 |
サポートミュージシャン4人のギャラ | 1,400,000 |
製作会社の儲け | 500,000 |
物販の経費 | 1,200,000 |
合計 | 11,300,000 |
ということで2000人規模のコンサートは1130万円ほどの経費で実現できるようです。
先の記事ではチケットを5000円としてましたが、いい席を値上げするなどして平均6000円も取れば1200万円、7000円なら1400万円の売上が見込めます。また、上記の経費にしても絞れそうなところはいくつもありそうです。
とすると1回のコンサートで100万円や200万円の利益を出す事はそう難しいことではない。年間5〜6本でも食べて行ける数字ということになります。
もちろん2000人規模の集客力のアーティストとなるとそう多くはないですが、逆にライブハウスなどなら音響照明設備が既にあるので、経費自体もぐっと下がることになります。
ライブで利益をあげるのは、今現在でも十分可能でしょう。
ライブへの回帰
レコードが発明されたとき、音楽家たちは「いつでも自宅で音楽が聞けるのでは、コンサートに来てもらえなくなる」と戦々恐々としていた、なんて話を聞いたことがあります。本当かはさておき、そういう話が出るということは、ライブ(生演奏)は彼らの生命線だったことがうかがえます。
レコードやCDの発明は音楽家たちに莫大な利益をもたらしました。しかし、依然としてライブへ足を運ぶ人々は存在し続けています。
言うなればレコードやCDはかなり「新しい収益源」であって、古来よりの音楽家のあり方ではないということになります。
今現在音楽出版社たちはネットでMP3などで無断配布されてる音楽を取り締まろうとやっきになっています。いつも言うセリフはこうです。「無料で音楽をダウンロードするのは泥棒と同じ」
本当にそうでしょうか?
さきほどレコードやCDは古来よりの音楽家のあり方ではないと言いました。ライブで利益があがることも説明した通りです。
見方を変えてみましょう。
「レコードやCDの発明以来、音楽家たちは本分のライブを忘れ、歪んだ法律により不当な不労所得をむさぼっている」としたらどうでしょうか?
音楽は本と違い、ライブできちんと利益をあげてきました。今もやろうと思えばできるわけです。それなのになぜ著作権による保護を適用しなくてはならないのでしょうか?
興味深い記事があります。「俺達のアルバムを盗んでくれ、レーベルの息の根を止めるのを手伝ってくれないか」という記事です。
どうやらこのバンドはCDの売り上げから出ているお金が全然自分たちの所にまわってこないようです。そしてライブで利益は上がっている。だからCDの売り上げよりたくさんの人に海賊版でもいいから聞いてもらって、ライブに来てもらいたいということでしょうか。
マドンナはレコード業界を捨てるのかという記事と、成長する音楽産業という記事も興味深いです。
ミュージシャンの収入源の2/3はコンサートになった
とのことで、もはやCDの売り上げなど大したものではないというのがわかります。
上記記事によると、あの有名な歌手マドンナも、音楽出版社を離れることになったそうです。CDで契約金分の元を取るには3枚のアルバムが各1500万枚ずつ売れないといけないとのことで、やはりここでもCDをあてにしてない事がわかります。
もちろんここで「演奏」と「作曲」の報酬をごっちゃにして語ってるのは承知の上です。しかし、それをわける必要がそもそもあったのか? 誰の作った曲を誰が演奏してもいい世の中のほうが、よほど正常じゃないのか? ビートルズの曲をハーモニカで吹いただけで逮捕される世の中よりずっとマシじゃないのか?
そしてそうまでして回収した著作権料が、本当に正当に分配されてるのか?
そう考えてみると、作曲への直接の報酬(印税等)は無くても問題無いのではないか、むしろ無い方が音楽市場にとって健全な結果をもたらすのではないか。そう思えてなりません。
コンピュータの世界では「オープンソース」というビジネスモデルが前世紀末に提唱され、プログラムの著作権を積極的に保護するのではなく、むしろそれは無料で配布し、そのプログラムを利用したサービスを売る事で利益をあげるという動きが活溌になっています。このオープンソースの考え方を音楽に適用しようという動きもあるようです。
「音楽」の本質が五線譜のオタマジャクシにあるのか、それとも「音」にあるのか、もう一度考えなおす必要があるのではないでしょうか。
まわるべきところにまわらないお金
そう、著作権料は本当に正当に分配されてるのでしょうか?
先日、アニメ制作現場の労働環境改善を求めるため、JAnicAという協会が設立されました。それを報じる毎日新聞の記事に興味深い記述があります。
ベテランのアニメーターも老後の不安を抱える。人気アニメ「あしたのジョー」の作画監督として有名な金山明博さん(68)は「40年近くアニメの世界にいたが、契約社員として働くことが多く、退職金ももらえなかった」と振り返る。
体調を崩して59歳で一線を退いた。今は月12万円の年金が頼りだ。「同年代の業界仲間には生活保護を受けたり、ホームレスになった人もいる。こんな環境で日本のアニメはいつまで持つのか」と心配する。
あしたのジョーと言えば、70年代から80年代にかけて、日本を席巻したアニメです。「人気アニメ」とありますが、そこらのちょっと人気が出てるアニメとは格が違います。
30代から50代の人間で、あしたのジョーを知らない人はほとんどいないでしょう。
それ程のインパクトを持つこのアニメの作画監督(映画でいう撮影監督に相当か?)という重要な著作者の一人に、なぜお金がまわらないのでしょうか?
法庫というサイトに掲載されている著作権法第二節「著作者」によれば、以下のような法律が書かれています。
(職務上作成する著作物の著作者)
第15条 法人その他使用者(以下この条において「法人等」という。)の発意に基づきその法人等の業務に従事する者が職務上作成する著作物(プログラムの著作物を除く。)で、その法人等が自己の著作の名義の下に公表するものの著作者は、その作成の時における契約、勤務規則その他に別段の定めがない限り、その法人等とする。
2 法人等の発意に基づきその法人等の業務に従事する者が職務上作成するプログラムの著作物の著作者は、その作成の時における契約、勤務規則その他に別段の定めがない限り、その法人等とする。
(映画の著作物の著作者)
第16条 映画の著作物の著作者は、その映画の著作物において翻案され、又は複製された小説、脚本、音楽その他の著作物の著作者を除き、制作、監督、演出、撮影、美術等を担当してその映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者とする。ただし、前条の規定の適用がある場合は、この限りでない。
法文なので少々難解ですが、16条を見ると作画監督は著作者として認められてるはずなのです。しかし「前条の規定」、つまり15条で「法人の発意に基づきその法人等の業務に従事する者」という除外条件が書かれています。
つまり制作会社との契約上、著作権は会社のものとなっていたのだと思われます。そのため、「あしたのジョー」の印税は作画監督にまでは入ってこない。
名目上は著作者を保護するための著作権が、著作者を守ってないわけです。
これはアニメだけの問題ではありません。「その法人等の業務に従事する者」には著作権が認められないわけですから、例えばキャラクターグッズを売る会社の従業員が書いたキャラクターの著作権も会社のものになります。
もちろんそうでなければやっていけない事情もうかがえます。しかし「著作権は誰を守るのか」を考えたとき、どうにも納得しがたいものがあります。
「あしたのジョー」のような大ヒット作品を作った著作者の一人が年金頼みの老後を送っている。はたして健全と言えるでしょうか?
悪用される著作権
また、著作権は悪用もされてます。
【マスコミ】「ウェブ魚拓は著作権違反」と新聞社が削除命令【証拠隠滅】
「ウェブ魚拓」はウェブの1ページのその時の状態そのままで保存するサイトです。
確かに厳密に著作権法を適用すれば、当時のウェブ魚拓では「コピー」となり、著作権を侵害する事にもなるでしょう。しかし「魚拓を取る」にはそれなりの理由があるわけです。
実際のところ、ウェブの情報はいつでも更新可能ですし、いつ書き換えられたかなどわからない部分もあります。そのため厳密にやるなら引用時には時刻も書いておけ、と言われたりもします。紙の時代とはそこが違うわけですね。
つまり、新聞社が記事を消してしまったり、公開後改竄したりしてしまうから、「魚拓を取っておけ」というわけです。紙の新聞記事と違ってしかるべきところに保管されるわけでもないので、そのとき保存しておかないと改竄前の記事は参照できない。
実際に新聞社のサイトの記事は、時刻経過で内容が変わるということはよくあります。
そのために「証拠」として第三者によるひかえを取っておく。それがそんなに悪いことでしょうか?
それを「著作権侵害」の名の元に糾弾するということは、「公開した記事を都合が悪くなったら引っ込めたり改竄したする」ことを法律で保証してしまってるようなものではないでしょうか。これはもはや著作権の悪用と言っていいでしょう。
似たような例はまだあります。
YouTubeを見ていると、たまに削除された動画があります。理由は様々ですが、「著作権侵害」が理由のものもあります。以下のような画面になります。
This video is no longer available due to a copyright claim by Tokyo Broadcasting System, Inc.
と書いてあります。
これは訳すとすると「このビデオは東京放送(TBS)による著作権侵害を訴える請求により、もう利用できません」ということで、要するに著作権のある動画だから消せとTBSがYouTubeに請求したので消されたということですね。
もちろん番組をまるごとアップロードしたようなものは消されて当然です。しかしYouTubeでアップロードできる動画はわずか10分に制限されており、番組全体のアップロードはほぼ不可能です。
ではなぜアップロードされるのか。
その理由のひとつに「引用」があります。引用のためのコピーは著作権法によって認められており、Wikipediaの引用の項に詳しく書いてあります。
しかし、以前の記事にも書いたように、テレビ局の都合の悪い動画を消させているという現実があります。
これは我々の引用する権利の侵害とも言えるのではないでしょうか。
著作権の悪用もいいところでしょう。
最近またひとつ著作権の悪用例が出ました。
アイデアに著作権なし……それでも「いいめもダイエット」サービス停止
「いいめもダイエット」が10月17日にサービスを停止する。いいめもプロジェクトが開発ブログで明らかにした。書籍「いつまでもデブと思うなよ」の著者である岡田斗司夫氏が、いいめもダイエットに対して「著作の核心と同一ですので、著作権の侵害に当たる可能性が極めて高いと思います」と主張したためだ。
当然のことですが、これは著作権の侵害にはあたりません。「アイデア」は著作権の範囲外だからです。
しかし、著作権という権利を振りかざし、「侵害」という言葉を使うことで暗に訴訟をちらつかせ、個人ないしそれに準ずる規模の団体に圧力をかける。こんなことが許されていいのでしょうか?
これは、特に相手が弱い立場の「訴訟なんてとんでもない」っていう層に有効なテクニックになるのだろう。たとえ批判されようとも「いやいや、私は個人としての意見を申し上げただけで、相手が勝手に閉鎖しただけですから」といういいわけができる。まぁ、あくまでも今回のケースがそうだってわけじゃなくてね。
岡田斗司夫氏が意図したかどうかはともかく、これもまた「著作権の悪用」と言えるのではないでしょうか。
著作権は誰を幸せにするのか?
著作権は、一面では著作者に莫大な利益をもたらしました。反面、これまで書いてきたような弊害をもたらしています。弊害は他にもあることでしょう。
そして「莫大な利益」を受け取ってる「著作者」とはいったい誰なのでしょうか。
たとえばコンピュータのプログラムは、著作権によって保護されています。ですが、「印税でゆたかに暮らしてるプログラマー」などついぞ聞いたことがありません。過酷な業務で体や心を壊したプログラマーならいくらでもいますが。
アニメーターたちの過酷な生活は、前述の通りです。音楽にしても、著作権使用料の分配の不透明さが指摘されています。
昨今話題の補償金問題にしても、分配の不透明性、実効力の無い返還制度が批判されています。
著作者たちは、必ずしも著作権による利益を受け取ってるわけではないのです。
そもそも著作権は本当に必要なのでしょうか?
大きな問題はコピー品を安く売られることだけではないのでしょうか?
それは著作権という大きな弊害のある法律でなければ取り締まれないのでしょうか?
印税など、書籍やCDの販売数におうじた報酬でしかありません。歩合契約ではいけないのでしょうか?
「著作物の利用」といった、実態を掴む事の難しいものからお金を取る事に、どれほどの意味があるのでしょう。実際に著作権侵害するかもしれないからピアノ撤去などという事態も起きています。
そもそも発表した著作物を著作者がコントロールする権利が認められてる事に、誰も疑問を持たないのでしょうか? どうして我々がTVの録画やCDの複製、作品のリミックスやマッシュアップに制限を受けなくてはならないのでしょうか?
そしてコントロールしようとする側も、必死で無限とも言えるネットを探しまわり、多大なコストをかけてコピー品を探しています。コピーされないために、コピーを制限するための技術開発にやっきになっています。それにも莫大なコストがかかるわりに、すぐ抜け道が発見されます。いつまでたってもいたちごっこです。そこにかけたお金は、いったい誰のものだったのでしょう。
さあ、著作権はいったい誰を幸せにしてるのでしょうか?
先日から著作権関係のパブリックコメント募集が始まっています。
また、MiAUというインターネット時代のコンテンツを考えるユーザー会の設立発表が、本日行われます。
もう一度著作権を考えなおす、いい機会ではないでしょうか。