2014年02月20日 20:00

アウシュヴィッツ強制収容所の人体実験で生き残った双子の女性が、海外掲示板で質問に答える

 

アウシュヴィッツ強制収容所の人体実験で生き残った双子の女性00
ナチス政権下で行われたユダヤ人の大虐殺(ホロコースト)の象徴とされる、アウシュビッツ強制収容所。

そこでは双子の子供を対象とした人体実験が行われ、1500組の被験者のうち、わずか200人が生き残ったそうです。
双子への実験 - Wikipedia

この実験で生き延びたという女性が、海外掲示板で質問を受け付けていました。

女性の名前はエヴァ・モーゼス・コーさんと言います。

彼女と家族がアウシュビッツに連行されたとき、彼女は10歳でした。双子の姉妹はそのときに、母親、父親、姉2人から引き離され、その後、彼らに会うことは2度とありませんでした。

双子の彼女らは、薬を投与される子供たちの実験グループに含まれていました。全ての指揮はナチスの医師、ヨーゼフ・メンゲレが下していました。投与されたエヴァさんは容態が悪くなり、それに対してメンゲレは、「残念だな、君はあと2週間で死ぬよ」と述べたそうです。なんとかそれに耐え、生き抜いたと言います。

1993年になって、エヴァさんはハンス・ミュンヒという名のナチスの医師と面会しました。この医師はガス室の存在を証言する書類に署名したことから、彼を許すことにしたそうです。そして、その後すべてのナチスを許すことにしたのだそうです。許すことは過去を忘れるということでも、彼らがしたことを容認することでもなく、犠牲者としての重みからようやく自由になるという意味があったと言います。

その後、他のトラウマや暴力による犠牲者へ、許すという方法を奨励もしているそうです。決して加害者のためではなく、被害者が楽になるために。
現在彼女はいろんな活動をしたり、数少ないホロコーストを生き延びた1人として活躍をしています。「死の天使(メンゲレのニックネーム)から生き延びて」という本も執筆しています。

こちらの写真は69年前のもので、アウシュビッツに収容されている先頭の少女が彼女だそうです。
アウシュヴィッツ強制収容所の人体実験で生き残った双子の女性01
その彼女が、海外掲示板の質疑応答に答えていました。

Q: こんにちは、この機会をありがとうございます。少し変な質問かもしれませんが、あなたを捕えた人々から人間らしさを見出すことはありましたか? 何かやさしい行動などはありましたか?
A: ありました。私はその病院のことを「生きる屍(しかばね)の粗末な建物」と呼んでいましたが、まず予想されていた最初の2週間で死にませんでした。職員が私に毎晩パンを一切れ持ってきてくれました。その建物には食糧があってはいけないので、たぶんそれが誰かにわかれば殺されていたでしょう。そのときに違う物の見方をして、私たちが生き残るのを助けてくれる人もいることを知りました。内緒でじゃがいもをゆでたときも、匂いがしたと思いますが通告されなかったというのがあります。でもそれだけです。当時の体制は説明のしようがないほど邪悪で、全員とは言いませんが大勢の人間が情熱的に命令を遂行していました。しかし中にはアウシュビッツのようなところでも、人間でいてくれた人もいました。ハンス医師のような人も、ナチスのシステムを操作して30人ほど助けていました。どれくらいそんな例があったのかわかりません。数多くはなかったかもしれませんが、自分に希望を持たせました。そんな条件でも人間でいられる人がいるということです。

Q: 人体実験はどんなものだったのですか?
A: とても危険だった実験は、細菌、病原菌、麻薬などを注入されることです。私は病気を注入されて死ぬはずでした。オッズを打ち破り何とか生き残りました。ですが1500組の双子のうち、たった200人しか生き残りませんでした。血液を抜くのは痛々しいですが同様の危険はありませんでした。その他には裸で8時間ほど立ったまま、座ったままでいなくてはなりませんでした。要求はひどくて、つらすぎるので心を閉鎖してしまわないといけませんでした。ですので、その長い時間帯の記憶があまりありません。どんな風に双子が似ているのか、あるいは違うのか、身体の比較などを行っていました。
身体の観察は週に3日、化学薬品の注入や血液を抜く作業は週に3日で順番に行われていました。日曜日だけは休みでした。それが理由で日曜日だけはわかりました。

Q: ナチス側の人間に、実験への罪悪感や疑問を抱いている人はいましたか?
A: 罪悪感を感じる時間があったかどうか、あるいは彼らがそれを感じているかどうかを、私が知る時間があったかわかりません。実験を施す側とされる側の対話はなく、事務的に素早く行われていました。他の人でそうした対話をした人がいるかどうかもわかりません。10歳の私にはほとんどありませんでしたが、もう少し年齢の高い双子ならあったかもしれません。そのときの私たちは、ただただ実験から生き残ること、なんとか乗り越えることで精いっぱいでした。

Q: 収容所にいたときは10歳だったそうですが、自分が人体実験をされていることを何歳で理解しましたか?
A: 自分が理解していたのは、死ぬか生きるかの実験をされていること。生き残るためには彼らの言う通りにしなくてはならないこと。それは最初からずっとわかっていました。むしろその実験の影響は、1993年に私の双子の妹が亡くなり、48年経って身体的に破壊されていたままであることを理解をしました。多くのケースでは生存者は精神的にかなりダメージを受けています。それは精神的にずっと被害者だからです。

Q: ホロコースト否認論者と面と向かったことはありますか? 彼らをどんな風に扱いましたか?
A: ホロコーストを否定する人や修正主義者と会ったこともあります。私は単純にこう言うだけです。私には父や母がいてアウシュビッツの後、2度と姉を含む家族に会うことはありませんでした。そして否定する人々がそんなに詳しいなら、自分の両親にいったい何が起こったのかと尋ねます。私の話が信じられないなら、私の両親に起こったことと全く同じことが自分たちの両親にも起こって欲しいと大きな声で言うように伝えています。ほとんどの人はそこで黙り込みます。

Q: 自由で健康になったとき、最初にしたことは何ですか?
A: その質問を何度かされました。人生が「ノーマル」になったとき、たぶんそれを意味しているのだと思いますが、イスラエルに到着するまでは自由でも健康でもありませんでした。(戦争直後は共産主義のルーマニアに住んでいました)
最初にしたことは、イスラエルのダンスを学んで歌を覚えたことです。なので歌と踊りは自分にとっては喜びの表現です。だから悲しい人を見ると、いつも私はダンスを踊ろうとします。16歳の時には、跳んで踊って歌うことは、もう心配しなくていいんだということを意味していました。イスラエルに住んでから、ユダヤ人というだけで痛めつけられる心配をしなくてよくなり、それはとても助けになりました。

Q: 自分も双子の1人です。数年前にアウシュビッツを訪ねて、いろんな展示物を見ました。メンゲレの双子の人体実験の写真にはとても衝撃を受けました。その恐怖や悲しみを自分と弟に置き換えると、想像しがたい気持ちになりました。あなたと妹にはどんなことが起こりましたか? いつ自由だと実感しましたか? アウシュビッツに戻ったとき、どんなことが頭をよぎりましたか。
A: たくさんの質問ね。出来るだけシンプルに答えるようにするわ。私たちは汚い2段ベッドに詰め込まれていました。シラミやネズミもうじゃうじゃいました。いつも飢えていました。人の親切にも飢えていました。昔あった父や母の愛にも飢えていました。私たちには何の権利もありませんでした。生き残るために人体実験を受け入れなければいけませんでした。1つだけ強く決心していたことは「あと1日生きる」です。
アウシュビッツに戻ったとき、特に私の場合は40年間ずっと自分の中で、あれは現実だったのだろうか、想像だったのだろうかと思っていました。戻ったとき、それが一気に現実だったことを理解しました。そして自分が覚えていたことが、どんなに正しいことかも。多くの建物もよく覚えていました。収容所に足を踏み入れて、そして出ても、誰も撃たないのはすばらしいことでした。それが自由という気持ちです。そのときにナチスに打ち勝ったのだと自分では勝利の気持ちになりました。

Q: 戦争のあとの人生はどうでしたか。自由にしてくれたのはアメリカ兵ですか、ソビエト兵ですか。
A: 自分はソビエト軍に救出されました。彼らはナチスよりずいぶんと良かった。ルーマニアでは大変な数年を過ごしました。いつも食事が十分ではありませんでした。自分は11歳で、父の妹に当たる叔母がアウシュビッツから生き残っていました。彼女の夫と息子は亡くなっていました。彼女が私たち双子を引き取りましたが、とても彼女にとって困難なようでした。私たちを見て、わが息子は亡くなり私たちがあのホラーから生き残ったのかと、何度も思ったに違いありません。私たちの面倒を見て教育も与えようとしてくれましたが、ストレスに満ちていました。彼女は文化的な人だったので、オペラに連れて行ってくれるのが楽しい時間でした。毎週オペラを見に行き、自分も好きになっていきました。それ以外は彼女は厳しい人でした。食事はなく、インフレはひどく、パンのために8〜10時間も並んでいたことを覚えています。そして自分の番になったときにカウンターを閉められてしまいました。結局パンはもらえず混乱だけしました。別のときは冬のコートが必要で、店に届くという噂がありました。20時間も寒い中を並びました。店がようやく開いて2000人が集まりましたが200着しかありませんでした。伯母の友人が私たちに気づき、私たちをコートと共にカウンターの下に押し込めて、この騒ぎが収まるまでそこで待っているように言いました。そしてコートは得られました。そんな風にとても困難な時代でした。

Q: 「シンドラーのリスト」は現実と比べてどうですか? 感情をよく表していたと思いますか。
A: シンドラーのリストについては全てが好きだった。なぜかというと犠牲者の混乱した感情をよく表していると思ったからです。その時点では、いったい何が起こるのか、どうなるかわからず、ルールもなく、いろんなことが起こった理由もわかりませんでした。ナチスがいったい何を始めるかもわからず、いったい自分たちが何を待っているのかもわかりませんでした。一つ気に入らなかったシーンはシンドラーが裸の女性とベッドインしたところです。おそらく起こったことでしょうが、何も伝えていません。人々が裸で呼ばれるまで立っていたというのは正確ですが、ベッドに飛び込んだというのは歴史というよりハリウッドだと思います。

Q: ナチスの支配から外れたその日はどうなったのですか?
A: 終わった日は、妹と家に帰りたかった。荷物をつかんですぐ帰れると思っていました。ところがそのあと3つの避難キャンプをたらい回しにされ、そこには食事はありました。避難所からは自由に出入りが出来ませんでした。結局家に帰るのに9か月かかり、帰ったとき家に誰もいないことを知りました。家は荒れていて、あったのは床に落ちている3枚の写真だけでした。家族のもので残っていたものはそれだけだったのです。そのことに直面するには大きな困難を伴いました。
今年の夏は、また戻ります。7月のはじめにアウシュビッツも訪れます。

Q: アウシュビッツでは、どんな風に気分を盛り上げて、適応していましたか?
A: 盛り上がることはほとんどできませんでした。ほとんどのエネルギーが生き残るということだけに使い果たされていました。同盟国の飛行機が来てナチスが逃げ始めたとき、幾分か希望を持ちましたが、そのときには私たちはアウシュビッツ・ダイエットと呼ばれる骨と皮だけでした。


Q&Aはまだまだ続いていましたが、想像を絶する経験に多くの人が関心を寄せていました。

IAmA survivor of medical experiments performed on twin children at Auschwitz who forgave the Nazis.

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