「貧困生活を経験した人に質問、どうやって暮らしましたか?」体験談いろいろ
今の時代、いきなり貧困になってしまうこともあり、そうした状況でも適応して生きていかなくてはなりません。
海外掲示板に、極貧のときの生活のしかたや体験談を質問している人がいました。
興味深い回答をご紹介します。
●収入証明を提示できないと、借家に延滞金を払って住んだり、安いモーテルやホテルに泊まって、さらに金を無駄にすることになる。家がないことが、いかに最悪かを学んだ。自分を2度とそういう状況に置きたくない。
●17歳のときに家を出なくてはならなかった。
お金はなく、ポンコツのカムリのタイヤがパンクしていて、トランクの中の予備タイヤもパンクしていた。インディアナポリスのタイヤ業者でタイヤの補修をしてくれるか行ってみた。そこで確認してもらったらタイヤを4つとも交換しなくてはいけないことがわかった。
店の人にお礼を言って外に出て、車に座ったら涙がこぼれて止まらなくなった。すると店長がやってきてウィンドウを叩いてきた。誰かが新品に替えて置いていった、ちょうどいいタイヤが1セットあると言う。お礼を言ってお金がないことを伝えると、お金は心配しなくていいと言ってくれた。卒業したらうちの店からタイヤを買ってくれればいいとね。
↑その後そこからタイヤは買ったかい?
↑ああ、いつも買ってたよ。引っ越すまで妻の分も息子の分もね。
●うちの家族はかなり貧困で、成長過程では苦労した。当時の交通機関はチケットに穴を開けられ月日が印刷されていた。ところが年は印字されていなかった。そこでチケットを月ごとに封筒に入れて保管しておき、電車やバスのチケットシステムが変わるまで、10年ほどは使い回した。
●車のパーツを解体屋からほとんど無料のような値段で手に入れることができた。大学で12年ものの車のタイヤが破裂したときに、解体屋でまともなタイヤを見つけて4個70ドル(約8400円)で買った。それでも次の2週間の食費の予算は16ドルになった。食料店でいくつのラーメンが買えるか計算機を叩いていると、そこにいた女性が20ドルをくれた。自分を泣かせた。今は貧困じゃないが、いつもその女性のことは覚えている。
●働いていた事務所には男女共用のトイレがあり、生理用品の自販機が備え付けられていた。1つ5セント(約6円)と格安だった。1カ月に1度、夜遅くまで残業しては、5セントを1ロール分取り出し、妻のためのタンポンをどっさり買っていた。
●子供の頃バーガーキングで特別なキッズセットが売られていた。小さなミニバーガーが2個くっついたバーガーの実験みたいなセットだった。たまにそれを食べに行くと、母親は自分が食べないもう半分のバーガーを食べていた。それとおかわりし放題のドリンクを飲んでしのいだ。
●ものすごい貧困な頃はファストフード店に通い、水と無料のスナックを食べていた。そこで他人が食べているのを座って観察していたが、たいして手も付けずトレーをゴミ箱に捨てずに食品をそのままにして帰る人も多かった。フライドポテト、コロッケ、チキン、フィッシュ、触っていないものもあった。口をつけられたものには手を出さなかった。
ある時は女性が自分の子供に2つのフィッシュ以上の食事を注文し、その子はコロッケ1つとフライドポテト数本だけを食べてそのまま帰った。その数週間では自分にとって最高の食事だった。
●多くの学校には18歳未満の子供に無料のランチを支給するシステムがある。自分が子供のときは父親に連れられて、学校でランチを食べ、その後にディスクゴルフ、サッカーなどの無料の遊びをした。楽しかったので自分たちが貧困だからそこを利用していたとは知らなかった。
●自分も貧困だったけど快適でもあった。いろんな体験が紹介されているけど、自分が気づいたことは、貧困だとあまり計画はできないし、まとめ買いもできない。要は必要なものをぎりぎりまで買えず、買わなきゃいけないときにはその値段で買う羽目になる。なので貧困だと結局は高い値段で買うことになる。
↑それはすごく正しい。アメリカで貧困でいることは高くつくんだ。
●ちょっと変わった子供時代だったと思う。
9歳までは中の上くらいの中流家庭だった。ところが父親が出ていって、母親がおかしくなった。9〜18歳はとても貧困だった。
10歳のときのご褒美は、今はなくなったカフェに行って99ペンス(約180円)で5ピースの朝食だった。それを母、兄、姉、自分で分けて食べた。
大人になってもそのときの記憶があるので、自分の子供には貧困を味あわせたくない。ソーセージ1本を争うことほどモチベーションが湧くことはない。
●人生最初の4年はとても家庭が苦しかった。
幼児のときにキャンディを買ってほしいとねだると、母親は「買えるけど、キャンディ1つのために2リットルのコーラを我慢しなくちゃいけない」という言いまわしをよくしていた。
小さい子供でありながら、コーラ1週間分がキャンディ2日分よりもいいことは理解できた。その副作用として、頻繁に欲しいものをねだってもダメと言われることが染みついた。特におもちゃのレゴやフィギュアなど。
6歳になると父親が投資していた採掘会社が上手く行き始めて、ようやく生活が楽になった。そのために父親は必死に貯めていたらしい。
急にマヨネーズのサンドイッチでサバイバルという生活から、月収100万円みたいに裕福になった。そのとき妹は2歳で、もう何でも手に入ることを知っていた。でも自分は6歳になるまで欲しいものはダメと言われ続けたので、欲しがらない子供になっていた。でも、そのことに両親は気づいていなかった。
ある時、祖母の体が弱くなったので一緒に住み始めた。家族全員で買い物に行き、祖母は僕がレゴが好きなことを知っていたが、でも僕は欲しがらなかった。妹はバービー人形とリトル・ポニーを両手に抱えていた。
祖母が僕に「レゴのセットは欲しくないの?」と尋ねた。すると僕は「ママとパパはいつもダメって言うんだ。お金がないから買えないんだよ」と答えたそうだ。
自分はこのときのことをぼんやりとしか覚えていないが、祖母が亡くなる前に話してくれた。母親がそれを聞いて泣き出したこと、父親が自分が敗北者のように感じた顔をしたことを。それまで僕が欲しがらなかったのは、いつもダメと言い続けてきたからだとその時に初めて気づいたらしい。
クリスマスには3つのレゴセットをもらったよ。
↑そして自分は泣いた。
●プラスチックのナイフやらフォークでも洗って使う。
●マクドナルドの無料のケチャップ。
●もう何を買ったかじゃない、何をむさぼっていたかだ。配給されるミルクパウダーや、米、ラーメン、粉スープ、ツナ缶、ディスカウントショップの腐りそうなパン。
●このスレッドを見ていると、誰かを助けたくなってくる。
つらいとき、ギリギリの生活のときの体験は、真に迫るものがあります。
What do insanely poor people buy, that ordinary people know nothing about?
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