2021年01月17日 22:40

「今は存在していない国の出身者に質問、母国がなくなるときはどんな気持ちだった?」回答いろいろ

 

もう存在していない国(ユーゴスラビアなど)に住んでた人
ユーゴスラビアやチェコスロバキア、ドイツにソ連など、この数十年の間にも分離や統合したり、名称や形態が変わったりした国があります。

「現在は存在しない国に住んでいた人に質問、母国がなくなったときはどんな気持ちでしたか?」
この質問に対する、海外掲示板のコメントをご紹介します。

Redditors who lived in countries that no longer exist (Like Yugoslavia, Czechoslovakia...etc) What was it like to see your country breakup?

●チェコスロバキアが、チェコ共和国とスロバキア共和国に分かれたとき(1993年)、自分は幼くて何が起きているのかさっぱりわからなかった。
いきなり今までとは違う地理を学校で教わった。それとたまに大人がひどいコメントをすること以外は変わりなかった。
覚えているのは、チェコスロバキア時代の教科書は改訂されなかったので「チェコスロバキア」を消して「チェコ共和国」と手書きで直された。
あるいは太く「チェコ」と「スロバキア」の間に太い線を引かされた。
それ以外はチェコとスロバキアは仲良く、例えばチェコの大学に大勢のスロバキア学生が留学し、そのまま滞在して働く。

●両親はユーゴスラビア紛争の前に現在のボスニアであるユーゴスラビアに住んでいた。1988〜1989年頃、赤ちゃんだった自分の兄弟や家族は家を建てたばかりだった。新居が建って1年で2人の小さな子供を連れて去らなければならない状況が想像できるだろうか。
自分は1992年にオーストリアで生まれて、子供の頃は貧困だったが幸せだった。母親の学位はオーストリアでは認めてもらえず、ユーゴスラビアではマーケットチェーンの店長だったのに、清掃の仕事しか選択肢はなかった。
1998年に紛争が終わってその家を訪ねたことを覚えている。家は銃弾だらけで戦車にコーナーが吹き飛ばされていたし、兄の古いおもちゃは前庭で踏みつけられていた。
母親は古いドレスを寝室で見つけたが、雨風にさらされて固くなっていた。玄関前の階段に座って静かに泣いていたのを鮮やかに覚えている。
言いたいのは、国を失うとは国の崩壊を見るだけではなく、去ったことで人生、夢、希望が、母親のお気に入りのグリーンのベルベットドレスのように腐っていくのを見るということ。

●ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の最後の年に生まれた(1995年)。
なので国が分断するときのことは覚えていないが、紛争後のことはよく覚えている。
生活は困窮し、サラエボはひどい爆撃を受けた。95%の建物は銃弾だらけで損壊していた。ドイツのテレビ番組で、母国には絶対にないかっこいいおもちゃを見ていたのを覚えている。
父親はYugo 55という車を運転していた。車体は榴散弾の破片で穴だらけだった(エンジンは自分で替えていた)。父親は車体を自分で直していたが塗装するお金はなかった。なので郵便受けのペンキを使ってペイントしていた。スーパーもなく小さな店だけだった。現在は他のヨーロッパのように復興しているけど、当時は全く違った。

●ラトビアから留学生が来た。彼の家族は地元に残されていった戦車を売って、かなり稼いだと言っていた。

●チェコスロバキアはチェコとスロバキアに分離したけど、実際はほとんど変わらない。言語はほぼ一緒で両国に大した違いはない。
ソース:自分はスロバキア人。

↑それに同意する。
ソース:自分はチェコ人。

●ソビエト連邦が崩壊する前のモスクワに住んでいた。その後に違和感を覚えたのは、それまで見なかった多くの欧米チェーン店。
1991年に初めてマクドナルドに行ったことを覚えているが、面白いのは店員はきちんと訓練を受けて、アメリカでやっているようにフレンドリーに接していたこと。とてもストレスフルで、わけがわからない時期だった。

↑その後、フレンドリーにしないように訓練し直したんだよ、現地の人が気味悪がったからね。

↑それが理由でウォルマートはドイツで成功しなかった。

●80年代にユーゴスラビアで生まれた。直接的な攻撃は受けなかった主要都市に住んでいたけど、3つの民族が混在していて、なぜ急に友人関係を解消しなければいけないのか、なぜ家族が分断されてしまうのかなど混乱を招いていた。子供として何か起きているかは理解していたが、なぜかはわからなかった。
お隣のイスラム教徒を軍人から隠してあげたことを覚えている。自分の身分を恥ずかしいと思った事も覚えている。そして何週間も電気も水もなしで過ごした事も覚えている。宿題をろうそくのあかりでやったことや、軍の配給、1本のオイルで1か月持たせることなども。めったに手に入らない小麦粉や、川で銃声や爆音がしたこと。5年間で父親を数回しか見ていない。
後で自分たちは幸運だと知った。人によっては一度も父親に会えていなかった。ビジネスも工場も閉鎖。いくつか仕事はあったけど賃金はない。全てのサイレンはサッカーの試合の邪魔をした。
なぜ何人かの友人に会えないのかなと思っていたけど説明は納得できなかった。今でも理解できない。一緒に仕事をして、遊んだ人々同士なのに。
こんなのは求めていないし、押しつけられて操られただけ。恐怖と不安で遊ばれただけ。

●質問の答えとはちょっとちがうが、ソ連崩壊による東側諸国の分裂は鉄のカーテンの反対側の資本主義諸国にも影響した。
われわれフィンランドは、冷戦時代はソ連のビジネスパートナーだったので、90年代に大きな不景気に見舞われた。


理不尽な紛争もあれば、実態はほとんど変わらなかったケースもあるようです。

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