2021年07月05日 22:50

コソボ議会の副議長に就任したサランダさん…想像を絶する過酷な人生

 

コソボの議会の議長
今年6月に、コソボ議会(コソボ共和国の立法府)の副議長に30代の女性が就任しました。

華々しいエリート人生のように聞こえるかもしれませんが、想像を絶するほどの過酷な人生を歩んできたそうです。

14歳のときに軍事弾圧で16発もの銃弾を浴び、家族14人を失ったのです。

Yesterday Saranda was elected vice-president of the Parliament of Kosovo! : Reddit, Saranda Bogujevci@SaraBogujevci : Twitter

1999年に起きたコソボ紛争で、セルビア人勢力によってアルバニア人が苛酷な弾圧を受け、14歳だったサランダ・ボグジェフチさんは16発の銃弾を浴び、母親・兄弟を含む14人の家族を失いました。

(※コソボ紛争:1998〜1999年にユーゴスラビア紛争の過程で、バルカン半島南部で勃発。ユーゴスラビア軍およびセルビア人勢力とコソボの独立を求めるアルバニア人の武装組織コソボ解放軍との戦闘)

奇跡的に生き延びた彼女は、4年後の18歳のときにアルバニア人犠牲者として初めて証人としてセルビアの裁判で証言をしています。

そして今年6月、彼女はコソボ議会の副議長に選出されました。

海外掲示板のコメントをご紹介します。

●ピザ屋の同僚がセルビアの避難民だった。彼の話に心が痛んだ。彼は叔父を頼りにアメリカに来たけど、両親は彼が戻って連れて来る前に殺されてしまった。彼の弟はオーストラリアへ行き、彼自身は家族と一緒ではなくホストファミリーと住んでいた。そのとき僕たちは17歳だった。

↑戦時中に育ったほとんどの子と似たような話だね。ボスニアは特にひどく、自分はクロアチアとボスニアの国境近くで育った。
自分は特にひどい交戦区域にいたわけではないが、それでも家族数人を失った。最もつらかったのは運転中に狙撃された愛すべき叔父だった。家族のために食料を調達していただけだった。心から平和を愛する一般市民で、戦闘をする人じゃなかった。
自分の家族は、地元のジムに確認しに行ったときに全員の命を奪われていることがわかった。これを書いているだけでもPTSD(心的外傷後ストレス障害)になる。
ありがたいことに自分はドイツに行く事ができて、就労ビザでアメリカにいる。

●紛争から20年も経ってから、行方不明だった夫や兄弟を集団墓地で見つけた女性と一緒に働いていた。彼女は1年の棚卸しが始まる前に1か月の休暇をとって、ボスニアへ帰国していた。
それなのに周囲には「なぜ彼女だけ休みが取れるの?」と文句を言う無神経のやつがいた。夫や兄弟が集団墓地で見つかったんだよ!

●クロアチアで90年代前半に一緒に過ごしたコソボ移民の親友はエルバサンという女の子だった。弟はレオナルド。紛争が終わったばかりだったけど、彼女たちはどうにか快適な生活を営むことができた。
私と一緒に遊びながらクロアチア語を学び、ときには一緒にやんちゃもした。彼の父親はパン屋(多くのアルバニア家族のように)で、いつもその日に残ったパンなどを持ってきてくれた。
パン屋の近くへ引っ越してしまい、連絡が途絶えたけど最近また彼女とつながった。結婚していて、とてもキュートな家族がいて、心からうれしい。

●ユーゴスラビア紛争のときにクロアチアにいた。本当にひどい紛争だった。強制収容所、民族浄化、ナチスのハンドブックの1ページを切り取ったみたいだった。

●いったいどうやって16発もの弾丸から生きながらえたんだ。

●1998年にドイツで生まれた幸運なボスニア人だが、両親が1997年に逃げ出したおかげ。ボスニアの歴史は本当に悲しいもので、両親は今も逃げたことへの罪悪感が消えていない。そうでなければ確実に殺されていた。

●コソボで育ったが、平均的な人はアメリカ人が想像もできない経験をしている。私の愛するすばらしい人々がね。

●彼女があの状況からサバイバルして今の成功を収めたのかは想像も及ばない。すばらしいと思う。


国・地域によっては、戦争は歴史上の出来事ではなく直接経験したリアルなのだと痛感します。

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