世界を席巻した「スペースインベーダー」の生みの親である西角友宏さんが海外で話題に
Tomohiro Nishikado, creator of Space Invaders, made the entire game himself. : Reddit, sergeitokmakov - Pixabay
海外掲示板の投稿内容は、今のゲーム作りはチーム単位の分業制が当たり前だけど、スペースインベーダーの全てを単独で作っていたことに感心したというもの。
デザイナー、プログラマー、アーティスト、サウンドミキサー、そしてときにはゲームハードのエンジニアもたった独りで行っていました。
海外掲示板のコメントをご紹介します。
●その年の彼の業績評価:「西角友宏はチームプレイヤーではない」
↑面白いと同時に信じられないほど正確でもある。
傑出したプロジェクトを単独で行えば報われると思うかもしれない。実際は上司や姉妹部門も年度末の評価報告に掲載されたがる。
●インベーダー豆知識:敵が撃たれて画面から消えるとスピードが速くなるのは、開発者が狙ったものではなかった。ゲームが速くなるのはプロセスするものが少なくなったからである。
↑皮肉にも時間限定のテクノロジーは、今日でもゲームの定義で使われている。
↑年配者の自分は90年代前半のDOSベースのゲームを覚えている。数年後にPremiumu2のパソコンで動かしたら500倍のスピードだった。全くプレイ不可能。
↑スピード増加、ドロップダウン、方向転換!!
●初めてプレイしたゲームは、ZX Spectrumというコンピューターだった。この男性は自分がビデオゲームをするようになった原因だ。投稿してくれてありがとう。
(ZX Spectrum - Wikipedia)
↑イギリスでは、ZX Spectrumはゲーム界で最重要の存在。ソフト産業に火を付けた。自分の人生の中で唯一、イギリスが世界より進んでいたときだった。
↑自分はAtari2600!
●ゲームを1から作りたいと思ったら、まずコンピューターを発明しなくちゃいけない。
●若者へ。
その頃のゲーム=インベーダーゲームだったんだ。他に比べられる存在はなく、10歳の自分たちが何百時間もプレイしたゲームだ。
卓球ゲームのポン"PONG"が誕生して、いきなりインベーダーゲームが現れた!!
並んだエイリアンを撃つだけなのに、それはすごかったんだ。
↑2体のぼろぼろのエイリアンが時速200kmで動くときの緊張といったらなかったな。バリアの半分しか残ってなくて手に汗を握った。
●ゲームが開発チームは1980年代に突入するまで存在しなかった。プログラマーやアーティストやアウトソースの音楽担当は別にいたかもしれないが、多くの8ビットゲームは単独で作られたよ。
↑そうだよ、それがノーマルだった。
自分のお気に入りのコモドール64ゲームの「ブルーマックス」はプログラムをしたことがない人によって書かれた。
当時がエキサイティングだったのは、確立されたジャンルすらなかったこと。アイデアを思いついては試行錯誤だ。過去の何物とも違う物を生み出したんだ。
●一方自分は、今朝スムージーをアイスの塊なしに作った。
●子供の頃はAtariで多くの時間をプレイして過ごしたよ。80年代以降プレイしていないのに、今でもサウンドや効果音が脳内で聞こえる。
リアルタイム世代の年配者たちが興奮気味にコメントしていました。
今のゲーム産業に多大な影響を与えていることは間違いないですね。
NETFLIX で本日より配信開始となった、ドキュメンタリー「ハイスコア: ゲーム黄金時代」
— タイトー (@TAITO) August 19, 2020
エピソード1には 開発者として西角 友宏さんが登場します。ビデオゲームの歴史を語る上で、スペースインベーダーは外せません!
ぜひご覧ください。
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