「人類が将来を見越して行った素晴らしいことはありますか?」回答いろいろ
ギリシャのことわざに「老人が自分たちが決して座らないであろう木陰を作るために木を植えると、社会は大きく発展する」という言葉があります。
「人類が将来を見越して行った素晴らしいことはありますか?」
この質問に対する海外掲示板の回答をご紹介します。
●ノルウェーの主権財産基金(ノルウェー政府年金基金)。
これを構築した世代によって、自分勝手に現金にしたり、政治家が票集めに使った結果かもしれない。
でも、将来の世代のために独立して投資され、管理されている。
(ノルウェー政府年金基金 - Wikipedia)
↑一方、オーストラリアの鉱山では、大富豪に「我々の雇用を守るために」多くの資金が提供されている。
↑大富豪だけでなく、多国籍企業は事業を継続するために巨額の税金補助金を受け取っている。まじめな話、補助金なしで競争力がないのであれば破綻させて、悪影響が少ないように国有化すればいい。
↑カナダにはノルウェーのような体制を作ろうとした州があったが、税金を安くするために略奪された。ちょっと悲しいね。
●ジョセフ・バザルジェットは、1860年代にロンドンの近代的な下水道システムを指揮したビクトリア時代のエンジニア。
彼は人口激増を予見し、地下に掘る「パイプ」の大きさを計算したところ、「いや、倍にしよう」と言った。おかげでこのインフラが今日も使われている。
↑そうだよ。彼は、より耐久性のあるポートランドセメントを使うよう主張したんだ。
このような先見の明のあるエンジニアに恵まれなかった他の都市を訪れると、良い下水道があることに心から感謝する。
↑ドバイはこう言った。「パキスタンやインドから奴隷を集めて、トラックで荷物を運ばせれば、パイプも貯蔵タンクも、そんな時代遅れのものは必要ないんだ。昔ながらの飢えた孤立した契約義務のある奴隷ほどうまくいくものはない 」と。
↑それはドバイだけでなく、国全体の話。人口の90%が外国人で、国内製造業はほとんどなく、見せびらかすような豪華なプロジェクトはほとんどすべて外国人エンジニアが設計し、奴隷労働者に請け負わせて建設している。ドバイは本質的に、人里離れた場所にあるただのポップアップ・シティである。
●第二次世界大戦の原爆投下による核廃棄物処理場の清掃を志願した日本人の老人たち。彼らは、自分たちが放射能の影響を受けるまで長くは生きられないとわかっていたので、若い人たちを放射能から守り、未来の世代のために日本をきれいにしようとこの活動を行った。本当に心温まる話である。
↑福島でも同じようなことをしていたよ。「私は年寄りで放射能に殺される前に死ぬだろう、だから私は彼らを救いに行く」とね。
●ナポレオン戦争中、イギリス海軍の提督が、休暇中に海軍の木材を確保するために、地元を歩き回ってオークの木を植えていた。現在、木々は使えるほどに育ったと推定されている。
↑スウェーデンでも似たようなことをした。そして、林野庁から海軍に、自分たちのオークの準備ができたと連絡があった……1975年のこと。
●カッシーニ家の地図。フランス初の地図で一族4世代、60年がかりで完成した。
その2代目の家族のことを想像してみよう。父親が一生かけて作った地図を、自分が一生かけて作り、息子も同じように育てて、完成させるまでにさらに1つ分の人生をかけている。
↑600年かけて建設されたケルン大聖堂を思い出す。途中、300年目で昼休みがあり、400年間はクレーンが建物の上に止まっていた。
あなたの一族が20世代に渡って、プロジェクトの始まりも終わりも見えていないことを想像してみて。
●ノートルダム寺院のようなヨーロッパの巨大聖堂は、建設に100年以上かかると言われている。だから、それを作り始めた人は、一生かかっても完成を見届けることができない。
↑最近、ケルン大聖堂を訪れた。1248年に建設が始まり、1560年に未完成で中断し、1800年代半ばに建設が再開し、1880年に完成した。最初の建設に携わった人々はもちろん、孫さえも完成を見届けることはできなかった。
●ルーズベルト大統領と国立公園。もし、彼があのようなことをしなければ、今日、国立公園は1つも存在しなかっただろう。企業の強欲がすべてを一掃してしまっただろう。
(※8年の任期中に5つの国立公園と150の国有林などを設立し、2億3千万エーカーを超える地域を国として保全した)
●まさに文字通りの意味で、ランスロット・ブラウンのランドスケープ・ガーデン。彼はこれらの庭園を注意深く作り上げ、木や潅木の植え付けを指示し、美しい眺めを作り上げた。だが実際に彼のビジョンを実現するためには、植物が成長するまで数十年かかった。
●スーザン・B・アンソニーは、女性に選挙権を与えるために生涯をかけ、選挙に行こうとすると罰金を取られ、何年もかけて人々を組織して闘った。彼女は1906年に亡くなったが、これは憲法修正第19条(女性参政権)が批准される10年前のことだった。
未来のために遺してくれた先人たちには感謝しかありませんね。